幼少期から失敗恐怖症
自分の未熟な性格のなかでも特に強く感じる部分がある。
それは
失敗に対する他人の評価を極端に恐れること。
自分の中で完結する失敗はあまりダメージがない。その失敗を他人が知覚した時の反応や評価を極度に恐れている。
バレたらどうしよう…
幼少期からこの傾向はあった。
何かを壊した、なくした、忘れたときに、まずは
バレないようにするにはどうしたらいいか、から考え始めてしまう。
ここまでは普通なのかもしれない。
しかし結果的に、誤魔化したり、隠したりすることが功を奏してきたのもあり、
真っ向から怒られる、謝罪する、お詫びする、相手の落胆を受け止めるという経験を積むことが少なかった。
その少なかった怒られる経験も、自己を否定された経験として強く記憶されている。
本気でこちらが悪いことをしたと自覚している時ほど、相手の反応が怖くて表面上の謝罪だけになったり、悪いのは自分だけではないと思い込ませて謝罪すらしなかったこともある。
仕事上、業務改善の目的でミスは共有しなくてはならないし、奨励されているが、
上司に報告しなければならないのが億劫である。面倒臭いのも相まって報告に上げなかった事例も実際ある。
マネージャーとして同僚の報告をチェックする側になり、部下ができていることすらできない自分、アダルトチルドレンっぷりに自己嫌悪する。
家庭環境が人格形成には重要な要素であるが、かなり幼い時からある感覚のようだ。先天的なものなのだろうか。
学業はテストの点数で評価される子供時代、良い点数をとるのは心地良かった。
テストを返される直前は興奮でドキドキしていた。100点取れたかな!?という期待で。
なかなか100点ばかりではないなかで、算数の計算間違いなどは仕方ないと思えた。
周囲のクラスメートにすごいね、って言われ待ちしてた。
一方で国語のテストの中にある自由記述問題…
⚪︎主人公はこのときどう思ったでしょう
みたいな問題に的外れに回答してバツをもらったときは消え入りたいくらい恥ずかしくなった。
『「頭いいくせに、的外れバカ回答してる」と先生に思われた』という感覚に毎回襲われていた。
社会に出てからは、テストの点数のような拠り所がない。上司に褒められることは嬉しかったが、どんどん自身が上に上がると褒めてくれる機会は少なくなら。タスクは次々と降ってきて、さばいて当たり前、達成できなかったときは注意指導を受けて落胆する。チームレベルでの決断に対し、個々レベルの不満に晒され辛くなる。
この度に自分が否定されている感覚に陥る。こんなことも出来ない自分なんて…
今ならこれが社会というもの、幼少期のテストのバツも人格否定ではないこと、は分かっているが、感じ方の癖というか反応経路は変わらないのではないか、変えられるとしても相当時間がかかるのではないかと思う。
こうしてごめんなさいを言う場面、申し訳ないけど、と言わざる得ない場面を回避することが私の行動基準になっていった。
これではいい仕事は出来ないのは明らかで、またこれでダメ人間だな、と落ち込む。
完璧主義の悪いところも顔をのぞかせる。
我ながらこじらせている。
でもまあよくさらけ出せたと思う。